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不屈の経営者に聞く

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浜野 慶一株式会社浜野製作所 代表取締役CEO

両親の早逝、工場の火災を乗り越え 墨田区からオンリーワンの モノづくりを発信!!

さまざまな逆境を跳ねのけてきた経営者にスポットを当てる本コーナー。 第2回目のゲストには、両親の早逝と工場の火災を乗り越え、夢に満ちた モノづくりを推進している浜野 慶一氏に、これまでの歩みについて語っていただきました。

Profile

はまの・けいいち/1962年東京都墨田区生まれ。1985年東海大学政治経済学部経営学科卒業、同年都内板橋区の精密板金加工メーカーに就職。1993年創業者・浜野嘉彦氏の逝去に伴い、(株)浜野製作所代表取締役に就任後、現在に至る。

御社は現在、金型レスの精密板金加工、ロボット・製造装置の開発・設計・製造などを手掛けながら、大手企業やスタートアップとのコラボレーションにも注力されていますが、もともとは家族経営の町工場だったそうですね。

浜野 慶一・浜野製作所代表取締役CEO(以下、敬称略) 当社は1978年に設立した墨田区の町工場です。創業者は私の父で、私が子どもの頃は父と母、職人さん一人がいるだけの小さな町工場でした。幼い頃から何か問題が起きると、父と母は昼夜を問わず口論するのですが、当時の私はそれがとても嫌でした。中学2年生になると「両親は飯を食うために嫌々仕事をしているんだ」と思い込むようになり、大学卒業後はモノづくりとは別の分野に就職しようとしていました。しかし就職活動も落ち着いたある日、父から突然、飲みに誘われたのです。父は目を輝かせながら「モノづくりは誇り高い仕事だ」と熱弁。普段そんな話を聞かなかっただけに衝撃的だったし、嬉しかったです。当時、弟は医師を目指していて、家業を継ぐ可能性は皆無でしたし、小さな町工場ですから第三者に事業承継する見込みもありませんでした。私自身、大いに迷い、大学の就職窓口や知人などに相談したのですが、最終的には「父がそれほどまでに大切にしている仕事なのだから、私が継承し、守らなければならない」と決断。これを機に、後継者としての人生を選択すると決めたのです。そして、既に決まっていた大手商社の内定を辞退し、父の勧めで東京・板橋の精密板金加工メーカーで働くことにしました。

なぜ精密板金加工だったのですか。

浜野 当時の浜野製作所では量産金型や板金加工を中心に請け負っていました。父はその拠点がゆくゆくは海外へシフトしていく一方で、少量多品種を軸にした金型レスの精密板金加工は日本に残り、それが強みになると予見していたのだと思います。

ところがその後、ご両親が相次いで亡くなってしまったそうですね。

浜野 板橋で働き始めて8年が経った頃に父が52歳で亡くなり、急いで浜野製作所を継ぐことになりました。それからは母に経営や経理の基礎を教わっていたのですが、母もその2年後に他界してしまいました。

さらに母上が亡くなった4年後の2000年には近隣火災のもらい火で本社兼工場が全焼したそうですね。

ガレージスミダの内観

浜野 火災はもらい火で、その原因をつくった住宅メーカーが倒産。補償を受けられなくなり、さらには借地権の権利書が焼失していつの間にか本社兼工場の土地が売却されてしまうなど、泣きっ面に蜂のような状態が続きました。ですが、父の「金型レスの精密板金加工は国内に残る」という先見の明に助けられ、火災の後も前向きに事業を続けることができ、当時、唯一の社員だった金岡 裕之(現・専務取締役)もついてきてくれました。
 また、ちょうど精密板金加工を柱にした新工場を建設している最中だったことも幸いしました。金岡と一緒に建築会社に夢を語り、青、赤、黄色のカラーリングが印象的な工場を立ち上げるところだったのです。資金繰りはかなり厳しかったのですが、そこは担当の税理士さんが助けてくれました。何より明確な夢があったので後ろ向きになることはありませんでした。

その後、どのようにして現在の事業基盤を構築したのでしょうか。

浜野 墨田区が主催する事業後継者のためのビジネススクール「フロンティアすみだ塾」に参加したのを機に、中小企業研究の第一人者、関 満博先生(一橋大学名誉教授)と知己を得たのが大きな転機になりました。以来、関先生のゼミ合宿などに参加し、全国各地の中小企業経営者と知り合い、経営やマネジメントを学ばせてもらいました。両親を早くに失い、経営を学ぶ機会を逸した私には本当にありがたいものでした。また、幅広いビジネスモデルを見聞きしたおかげで、オンリーワンのモノづくりを推進したいという思いを強くすることができました。

現在の強みを教えてください。

浜野 私自身も父と同じようにモノづくりの奥深さに惹かれるようになっていきましたが、モノづくりといえば「3K」(きつい、汚い、危険)のイメージが根強く、若手の参入が叶わない現状があります。そこで、私は工場をオープンにして、そこにおもちゃ箱のようなワクワクがあることを広く伝える必要があると考えました。
 そして、2014年にモノづくり企業の支援拠点「Garage Sumida(ガレージスミダ)」を立ち上げました。以来、当社ではこの事業を中心に新たな製品・サービス開発に挑戦する事業者に技術相談や開発支援、スタートアップと大手企業をつなぐ共同開発プロジェクトなどを進めてきました。また、モノづくりに関するセミナーと交流会を開催するなどして、ネットワークを着実に広げていきました。おかげで、これまでに300を超えるプロジェクトを支援することができ、その都度、当社の知見やノウハウも磨かれていきました。また、イベントには行政やメディア、金融機関も参加するようになり、新たなコラボも続々と生まれています。東京は人件費も土地代も高いし、敷地が狭いため生産ラインを構築する上でも不利です。しかし、日本で最も、多様な人たちが集まる地域でもあります。この強みを最大限に活かしながら、これからもモノづくりに励んでいきたいと思います。
 例えば、ブリヂストン社と月面探査車用の金属製タイヤの開発をしたり、これまでトヨタ自動車から出向者を3名受け入れています。その他、大手ともさまざまな分野でコラボしており、現在は、コニカミノルタからの出向者を受け入れています。

今後の目標をお聞かせください。

浜野 こうした取り組みと同時に、今後はITやIoT(モノのインターネット)、AI(人工知能)の導入にも力を入れ、モノづくりの自動化や生産効率の向上に尽力していきたいと思います。自動化は世の中の大きなトレンドであり続けると思うので、常に最先端の体制を構築していきたいと思います。ただ、それだけでは真の差別化を図ることはできませんし、オンリーワンの付加価値を生み出すことはできません。人との出会いや対話を通して「やっぱり人間にしかできないよね」というアイデア、そしてモノづくりをこの町工場から世界に発信していきたいと思います。

素晴らしいビジョンですね。今後もその方向性を推進し続けてください。

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