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会計人のリレーエッセイ

2021年12月号

本間郡兵衛?

齋藤 俊勝

東北会

山形県酒田市齋藤 俊勝

 令和3年のNHK大河ドラマは、近代日本経済に大きな功績を残した渋沢栄一翁がモデルとなっている。同時代に歴史の表舞台には出てこないが、坂本竜馬など多くの志士たちと共に、新しい時代の夢を追った幕末に、酒田出身の洋学者 本間郡兵衛がいた。

郡兵衛(北曜)が描いたペリー艦隊の旗艦です

郡兵衛(北曜)が描いたペリー艦隊の旗艦です

 郡兵衛は文政5年(1822年)、酒田の豪商本間家の一族に生まれ、江戸に上って葛飾北斎の弟子(北曜)となり、蘭学も修め、勝海舟塾の教師にもなった。その後、長崎ではアメリカ人のフルベッキから英語を学び、海外の事情を知り当時の先駆者と交わった。

 また、薩摩藩の家老 小松帯刀から英語の才能を認められ、薩摩藩の近代化事業「集成館」の「開成所」の創設で、英語教師となった。やがて勤王運動に巻き込まれるが、外国の経済侵略に憂慮した薩摩藩が日本で初めての株式会社を設立する必要性を考え、郡兵衛たちと「薩州商社(大和方コンパニー)」を立案し、北前船で北海道、酒田、北陸、関西、九州など全国での商いを計画した。この建議書は本間家に残っている。

 「条書(定款)」やコンパニーを「株式会社」と訳したのは、郡兵衛たちが最初である。郡兵衛たちの建議書は、坂本竜馬の「亀山社中」より早いが歴史は皮肉であり、近代化に貢献した東北人も多くいたのである。

 郡兵衛は慶応2年(1866年)、酒田の本間家に出資させようと奔走した。しかしあまりにもタイミング悪く酒田に帰郷し、薩摩のスパイと疑われ捕らえられて死亡した。2カ月後、戊辰戦争は終了した。維新後、多方面で活躍できたであろうと惜しまれる。

 戊辰戦争で、なぜ西郷隆盛が庄内に対して会津とは別の配慮をし、無血開城に至ったのか、このカギは酒田の郡兵衛や本間家への配慮があったのではないかと考えられている。(『西郷隆盛伝説』佐高信著)

 歴史は一人でつくられるものではなく、タイミング、周囲の支えも大切である。維新後に多くの東北人が、北海道をはじめ全国で近代日本に尽力した。本間郡兵衛の遺業を次世代に語り継ぎたいと思う。

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