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会計人のリレーエッセイ

2020年04月号

壺屋の由来

上間 常秋

沖縄会

沖縄県那覇市壺屋上間 常秋

「やちむん通り」の一角を収めた写真です

 壺屋は、那覇市の戦後のはじまりの中心地として知られています。

 大正時代末期の頃は、キビ畑に囲まれた小高いお城のような町であったといいます。

 その名称は、「陶器をつくるところ」の意味であり、壺屋という固有の村名はなかったようです。1682年、尚貞王の時に美里の知花、首里の宝口、那覇の湧田の土地の陶窯を合併させ、それを境に壺屋で陶業が始められ、「壺屋」の名称ができました。

 壺屋が選ばれた理由は、地形的な特徴として登窯がつくりやすい勾配を持っていたからだと言われています。大正の終わりから昭和の5~6年頃は、戸数が135戸、人口が1350人ほどいて、その約9割が陶器に関係していたそうです。

 昭和20年6月、沖縄戦が終わるとまもなく、沖縄本島北部の捕虜収容所に収容された住民の中から壺屋出身者を選り抜き、故地に帰したのは米軍の政策でありました。

 陶器再興が狙いで、着の身着のままの住民に食器類を供給する必要に迫られてのことでした。戦前の壺屋は、那覇市の中心から離れた郊外にある半農半陶の村だったので、中心部ほど戦災に遭わずに済んだようです。

 昭和20年12月に早速最初の窯出しが行われ、焼き上がったばかりの食器類が人々の手に行きわたります。壺屋出身の金城次郎は昭和60年、これまでの作陶活動と体得した壺屋焼の技法が評価され、国指定重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝として認められました。近年、周辺の宅地化に伴い登窯の煙害が指摘され、昭和49年には那覇市公害防止条例が可決、登窯の使用禁止が勧告されます。登窯にこだわった金城次郎はそれに先立つ昭和47年に、壺屋から読谷村座喜味に制作の場を移しています。

 現在、壺屋では12~13件の陶房で陶器類の制作に当たっていますが、燃料にはガスか電気が使われています。また、那覇市立壺屋焼物博物館前から東向かい、通称「やちむん(焼物)通り」と呼ばれる道路の両側に約40軒の焼物店が並び、観光スポットになっています。さらに、同通り裏には、当時の姿を典型的な形で残していると言われる国の重要文化財(建造物)指定の「新垣家住宅」がありますが、何年も前から現在まで整備が続いており、見ることができません。建物の建築年代は不明ながら、19世紀後半までには建造されたのではないかと言われています。

 公開されますと、那覇市の新しい観光の目玉が一つ増えるものと期待されます。

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