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特集 SPECIAL FEATURE

リスク軽減への一手!

認知症対策としての信託活用

世界的に深刻化している認知症の急増。中でも日本は超高齢社会にあって、その対策が急務です。 特に企業経営を担う経営者の認知症リスクをどうするかが問題になっています。そこで、本特集では 経営者の認知症対策について、行政書士の松尾 陽子先生に「民事信託」という切り口で解説いただきました。

認知症対策としての信託活用

©marigis/shutterstock.com

松尾 陽子 氏

行政書士法人
まつおよう子法務事務所
代表

松尾 陽子 氏

税理士事務所、中小企業、バスガイド、飲食店など、さまざまな仕事を経験した後、2015年に行政書士事務所を開業。その後、すぐに信託のことを知って感銘を受け、以来、共通の志を持つ仲間と一緒に民事信託(親愛信託)の普及に尽力。福岡をはじめ、北海道、名古屋、東京、大阪などで、専門家向けの信託組成のための連続講座を展開している他、毎週1回のペースでセミナーを開催している。MJS税経システム研究所 客員講師も務める。

 認知症とは「さまざまな脳の病気により、脳の神経細胞の働きが徐々に低下し、認知機能(記憶、判断力など)が低下して、社会生活に支障をきたした状態」を意味します。日本では高齢化の進展とともに65歳以上の認知症患者数が拡大しています。2019年に厚生労働省が発表した国や学術機関が合同で実施した研究の結果によると、少なくとも12年時点で約462万人の有病者がいると推計されており、その数は年々増加しているようです。推計では25年に最大730万人、40年に953万人、60年に1154万人にまで達するとされています。また、世界保健機関(WHO)は、世界の認知症有病者数は23年3月時点で5500万人以上に達しており、2030年までに6570万人、2050年までに1億1540万人になると予測しています。

 世界的な課題となっている認知症ですが、経営者が認知症になった場合にはどのようなリスクが生じるのでしょう。また、そのリスクを軽減するための対策はどのように講じればいいのでしょうか。以下、行政書士の松尾 陽子先生にお話しいただきます。

認知症対策として注目される民事信託の活用法

 認知症の増加が社会問題となる中、経営者の認知症対策が喫緊の課題となってきています。経営者が認知症になってしまうと、経営判断ができなくなるだけでなく、会社の財産を動かすこともできなくなってしまうからです。しかし、その対策は容易ではありません。相続対策といえば「遺言」を思い浮かべる方が多いと思いますが、遺言は遺言人が逝去して初めて効力が発生するものであり、認知症によって判断能力を失った状態に対しては無力なのです。

 そういった中で注目してほしいのが「民事信託」(私は「親愛信託」と呼称しています)です。そもそも、信託とは民法における「所有権」を「財産権(信託受益権)」と「名義」とに分離する仕組みのことです。また、信託には信託銀行などを介する商事信託と、家族や親しい人たちとの間で信託契約を結び、運用していく民事信託の2つがあり、認知症対策では民事信託を活用することになります。

 そもそも認知症対策を進めるにあたって、最も大切なのは早めに経営権(議決権)を移転しておくことです。しかし、中小企業で事業承継を進める場合、経営権に紐付いている株式の移転が難しいという課題があります。後継者によほど資金的な余裕がない限りは株式を買い取ることが難しく、仮に資金を持っていたとしても本人にとってリスクを取ってまで引き継ぐ価値があるのかという問題に直面するからです。また、経営者側からしても、後継者にいきなり全てを委ねる決心がつきづらいといったこともあります。



 こうした課題を民事信託は一気に解決することができます。その代表的なスキームが株式信託です。株式の権利を「自益権(財産権)」と「共益権(議決権)」に分離し、経営者(株主/委託者・受益者)と後継者(受託者)の間で株式信託契約を締結することで、財産権を動かさずに議決権のみを後継者に移転し、株式購入などの負担をかけずに済ませることができるのです。しかも、株主は名義(議決権)を移転した後も「受益者への報告義務」によって引き続き会社の動向をウォッチし続けることができますし、「これ以上、経営を任せられない」ということになったら、受託者を交代して議決権を取り戻し、経営者として返り咲くこともできるのです。



 一方、会社の権利を財産権と経営権に分離し、財産権を後継者に渡すというスキームも有効です。この場合、株主(委託者)は経営者としての議決権を維持しながら、相続対策のために財産権の部分を早めに譲渡していくことができます。なお、この際には自分を受託者にする「自己信託」というスキームを活用することも可能です。信託という仕組みに抵抗がある場合であっても、自己信託であれば自分自身が受益者となるわけですから所有権と変わらない状況を保てるので、取り組みやすいものと思われます。そして、株価や後継者の成長具合を見ながら、良きところで受託者交代という手続きを経て、後継者に議決権を移転すればよいわけです。ただし、相続税法は「相続ではない財産権の移動」に関して特別な条文(相続税法9条の2及び3)を設けており、「みなし相続財産」として所有権の相続や贈与の場合と同率の課税を行うとしているので、受益権を相続や贈与で移す際には相応のコストが必要になることも念頭に置いていただきたいと思います。

 その他、先述した株式信託の仕組みを活用すれば、経営権を後継者に移転した上で、株主の身に何かあった場合に複数の相続人に財産権を移転することが可能です(オーナー型株式信託)。ちなみに、このスキームは後継者の選定に迷っている時にも有効です。相続の場合、一度、相続が済んでしまうと取り返しがつきませんが、このスキームであれば議決権のみを後継者に移転することで、非課税でリスクヘッジをすることができるのです。例えば後継者が複数人いる場合、数年単位で受託者を変更して議決権を順番に行使できるように取り決めておき、一人ひとりの適性を見極め、最終的に誰を経営者にするかを決めるといったことができます。

 さらに、民事信託を活用すれば、中小企業同士のM&Aをスムーズに進めることも可能になります。売り手に配慮したM&Aの事例として、売り手の経営者を数年間、役員や相談役といった立場で会社に残し、徐々に経営統合を進めていくケースがありますが、それでもM&Aによって株式を移転してしまっている以上、買い手も売り手も後戻りができない状況にあることは変わりません。いかに売り手に配慮し、経営統合を慎重に進めたとしても「こんなはずではなかった」という結果に陥ってしまうことがあるわけです。



 ところが、株式信託というスキームを活用すれば、M&Aの話がある程度まとまった段階で買い手に決定権のみを移転するという選択肢を採ることができるようになります。もちろん、その後数年間、買い手に経営を担ってもらった上で問題がなければ財産権を移転することもできますし、問題があればM&Aを白紙に戻すこともできるので安心です。また、M&Aにおいては、買い手は「安く買いたい」、売り手は「高く売りたい」と思っているだけに売却価格がなかなか決まりにくいものですが、このスキームのように買い手がいったん経営に取り組むという過程を経れば、双方がより現実的な視点で価値を見極められるようになるでしょう。中小企業のM&Aのように企業価値の算定がしにくい領域においては特に効果的なスキームなので、中小企業のM&Aを活発化させる上でも大いに役立つと思います。



税理士の先生方とともに民事信託の普及に努めたい

 昨今、このように認知症対策に民事信託を活用する動きが急速に盛り上がってきています。令和6年以降に相続開始前7年以内(従来は3年以内)の贈与が相続税の対象になると定められたこともあり、今後、さらにその注目度は増すものと思われます。実際、東京や大阪、名古屋、福岡などの大都市部ではこの種の信託事案が増加傾向にあり、私の事務所にもさまざまな相談が舞い込んできています。そうした流れとともに、一時は信託口座(信託された金銭を管理する口座)の開設に後ろ向きだった金融機関も理解を示し始めています。例えばオリックス銀行では、信託口のインターネット口座を5万円で開設するサービスを展開。おかげで、最近は40~50代の経営者が万が一に備えて、民事信託を検討するという潮流が生まれ始めています。今後、オンライン化の動きはさらに加速していくと思いますので、民事信託はより身近なものになっていくでしょう。

 とはいえ、民事信託は活用され始めてから日が浅い制度ですので、まだまだ事例が少なく、成否の判断が難しいケースもいくつかあります。その一つが財産権を移転した場合にみなし相続税の計算方法が適切かという問題です。また、先述した自己信託に関しては、名義も財産権も自分なので通常の口座と区別がつかないため、信託口口座が開設できないというのが現状です。

 こういった民事信託における不明点や課題は、今後、さらに活用・普及が進み、事例が増え、社会制度が追い付いていくにつれて解消されていくはずです。その動きを後押しすべく、私は今、協同組合親愛トラストという団体で、民事信託に関するセミナーや勉強会を重ねています。ぜひとも税理士の先生方にもご参加いただき、さまざまな意見を頂戴しながら新たな活用法や課題の解消法を模索していければと考えています。

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