良い習慣が良質な睡眠につながる
睡眠改善のススメ
―健康経営の実現に向けて―
「健康経営」という考え方が近年関心を集めています。この概念は、1990年アメリカで経済心理学者の ロバート・H・ローゼン氏によって提唱され始め、日本では2006年にこれを推進するNPO法人健康経営研究会が発足しました。 また、近年のSDGs達成や国内の深刻な少子高齢化による人手不足などを背景に、「健康経営」を目指すことが企業の 持続可能な経営の達成に必須とみる考え方が強くなっています。 それを実現する上で重要なものの一つが睡眠です。しかし、仕事やストレスなどによって良質な睡眠を取ることができていない人が 多いのも事実です。では、良質な睡眠を取るために、私たちはどのように環境を整え、入眠する必要があるのでしょうか。 日本睡眠環境学会長であり、長年にわたって睡眠改善研究に取り組んできた 田中 秀樹教授(広島国際大学健康科学部心理学科)にお話を伺いました。
研究の末に睡眠と健康の因果関係が明らかに
睡眠は日常のコンディションはもちろん、心身の健康にも影響を及ぼします。事実、睡眠不足になると前頭葉機能が低下し、集中力や記憶・学習能力、推理・計画・ひらめきの能力が低下したり、イライラしやすくなってしまうという研究結果が出ています。
しかし、1970年代以降、日本人の睡眠時間は減少傾向にあります。そこで、私は「睡眠改善学」を研究することにしました。国立精神・神経センターに所属していた頃は、沖縄の高齢者の睡眠と心身の健康をテーマにした研究に注力し、当時、日本一の長寿県だった沖縄と東京などの都市部を比較。その中で沖縄に住む人たちの多くが15時までに30分以内の短い昼寝をし、夕方に散歩をするといった習慣をお持ちで、それが結果として極めて良好な睡眠につながっていることが分かりました。
そこで、私は睡眠と心身の健康の因果関係をより明確に調べるために、数十名のモニターを集めて定期的に健康教室を開催することにしました。モニターの皆さんには睡眠の重要性を伝える講話を聞いていただき、昼寝や夕方の散歩を取り入れてもらいました。すると、モニターの皆さんの睡眠状態はさらに良質なものになり、身体能力も向上していったのです。実際、体力測定の推移も良好で、足腰が弱かったおばあちゃんが階段を上れるようになったというお話もありました。睡眠教室の評判は口コミで広がり、開催地も少しずつ拡大。最終的には健康教室を開催した自治体の医療費を2億8000万円ほど削減することにもつながりました。
朝活や昼寝の導入で良質な睡眠時間を確保
メジャーリーグで活躍する大谷 翔平選手の平均睡眠時間は10時間以上と言われています。また、インタビューで「1日1時間増えるなら何をするか」という問いに対し、「睡眠じゃないですかね。1時間増えるだけで、起きている時間のクオリティーが上がる」と回答しています。これは実に理にかなった素晴らしい心がけです。睡眠を大切にしているからこそ、世界的な活躍を続けることができているのだと、あらためて感心しました。
ただ、現代において良質な睡眠を取り続けるのはそう簡単なことではありません。私は沖縄での研究以降も睡眠改善学に取り組み続けてきましたが、近年は1970年代に比べて、どの世代においても1時間ほど睡眠時間が減少しています。その背景にはライフスタイルの変化があると言われており、特に2000年代以降はPCやスマートフォンのブルーライトを浴び過ぎて、良質な睡眠が取れなくなってきていると指摘されています。そのカギになるのがメラトニンという睡眠ホルモンです。メラトニンは起床後に光が目に入ってから14〜16時間後に分泌され、心身をリラックスモードにする作用を持っているのですが、入眠前にブルーライトを浴び過ぎると、メラトニンの分泌が抑制され、入眠しづらくなってしまうのです。
ですが、今の時代にPCやスマートフォンを悪者扱いしても何の解決にもなりません。現代のライフスタイルを加味した上で、できるだけブルーライトを避け、良質な睡眠を取ることに重きを置くべきと考えています。実際、仕事で夜遅くまでPCやスマートフォンを使わなければならない人も多いでしょう。それであれば、PCのモニターにブルーライトカット仕様のフィルムを貼り、ブルーライトカット仕様のメガネを着用するなど、夜に直接ブルーライトを浴びない工夫をすればよいのです。
また、最近は気分転換に動画を視聴して過ごす人がいますが、これもまたメラトニンの抑制につながってしまいます。それであれば、動画視聴の時間帯を早朝に切り替えるのはいかがでしょう。動画視聴に限らず、早起きしてジムでトレーニングをしたり、散歩をしたりといった朝活を取り入れることは、良質な睡眠を取る上でもプラスに働きます。また、明るいところで食事をするよう心がけることも効果的です。特に朝食を明るい場所で摂るのは脳の覚醒を促す上でも大いに意義があります。
その他、沖縄のケースでも触れましたが、昼寝は良質な睡眠を取る上で効果的な手法の一つです。もっとも、昼寝の適正時間には個人差がありますし、その時の健康状態などにも影響されますが、おおよそ30分以内の昼寝はその後の能力を高める上でも効果的とされていますし、若い人であれば15分程度の昼寝でもかなりの効果が期待できます。最近は昼にカフェインを摂取して短時間睡眠を取る「コーヒーナップ」という手法が注目を集めていますが、これも非常に効果的な手法なので、興味がある方はぜひ取り入れてみてください。ただし、その際には横になると寝過ぎてしまうことがあるので、椅子に座った状態で寝るとよいでしょう。周囲の光や音が気になる場合は、アイマスクや耳栓などを活用してみてほしいと思います。
昼寝にこうしたプラスの作用がある一方で、朝寝坊は良質な睡眠の妨げになるので注意が必要です。「休日くらいは昼まで寝ていたい」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「寝だめ」には何の意味もありません。休日に多めに睡眠を取るにしても、「通常の起床時間の2時間後までには起きる」といったルールを自分なりに設けておくとよいかもしれません。
体温や室温を整え入眠しやすくする
よく「寝つきを良くしたい」という相談を受けることがありますが、そういった方にはまず入眠時の体温をコントロールしていただきたいと思います。中にはなかなか寝つけないので「身体を動かす」「運動をしてみる」といった方がいますが、実は逆効果です。というのも、人の生活リズムは気温が高い日中に行動し、気温が下がる夜に寝るというサイクルになっており、人の身体はそれに合わせて入眠時に体温が下がるようになっているからです。つまり、入眠前に運動をしてしまうと体温が上がってしまい、むしろ入眠の妨げになってしまうのです。だからといって身体全体を冷やせばよいというものでもありません。「頭寒足熱」と言われるように、頭部は冷やして、足元は温める。これが入眠を促す上では重要なポイントになります。
同様の理由から「夜に風呂に入る」場合にも注意が必要です。これは入眠直前に熱い風呂に入ると体温が上がってしまい、入眠しづらくなってしまうからです。寝る前に風呂に入る習慣がある方は、入眠の1時間前までに風呂に入るようにする、入眠時間が近い場合は38~41℃のぬるめのお湯にすることを心がけるとよいでしょう。また、熱いお風呂が好きな方、夜にジョギングなどの運動をする方の場合は、入眠の3時間くらい前までに済ませるようにしてみてください。
自分にマッチしたリラックス環境を整える
良質な睡眠を取るには、入眠時にリラックスすることも重要です。入眠時に考え事や悩み事をしていると、なかなか寝つけないことがあると思いますが、それは脳が興奮状態に陥っているからです。といっても、リラックスできる環境というのは人によって異なるので、いろいろな方法を試してみるとよいでしょう。例えば、入眠時にヒーリングミュージックを流すというのも一案です。しかし、その際には音楽をかけっぱなしにしないように注意してください。寝入ってからは余計な物音がしないほうがよいので、タイマー機能などを活用し、しばらくすると音楽が停止するようにしておくとよいでしょう。
また、リラックス効果があるお香やアロマを使うのもお勧めです。一般的にはヒノキやカモミールなどの香りにはリラックス効果があります。好みの香りを試してみてはいかがでしょうか。あとは、腹式呼吸にもリラックス効果があると言われていますし、多様なメーカーから安眠用の枕をはじめとしたさまざまなグッズが発売されているので、いろいろと試したり、組み合わせたりして、自分にマッチした睡眠環境を整えていただきたいと思います。
睡眠時間にも人それぞれの適正時間が存在します。自分に合った睡眠時間は、翌日の体調や頭の冴え具合で判断します。気になる方は自身の睡眠時間と翌日のコンディション(体調や頭の冴え、パフォーマンスなど)を記録し、適正時間を割り出してみるのもよいかもしれません。最近はスマートウォッチをはじめ、睡眠時間や睡眠状態を記録するツールがいろいろと出ているので、それらを上手く活用してみてください。
睡眠環境学会では睡眠によいとされる習慣をリストアップした「生活リズム健康法」を提唱しています(図3)。このページの上部にそのリストを掲載していますので、まずは記入をすませ、さらに△(頑張ればできそうなこと)の中から3つほど自分で改善しようと思う目標を選んで、日常生活の中に取り入れてみてください。そうすれば、着実に睡眠改善を図ることができるはずです。
良質な睡眠は健康経営に直結します。会計事務所の皆様におかれましては、顧問先企業にもぜひともこうした情報を提供し、睡眠改善を推進いただければと思います。