人事評価制度の刷新で人材の定着を図る
原資に限りがある中小企業が
賃上げを実現するには
近年、賃上げ機運が高まっています。経団連の発表によれば、2023年の賃上げ率は 大手企業(製造業、非製造業含む加重平均)で4%弱、中小企業(同)で3%上昇。これは30年ぶりの高水準とされ、 今年24年の平均賃上げ率は前年を上回る高水準となる見通しです。大企業による賃上げは今後も持続するとみられますが、 中小企業では昨今の物価高や円安などで経営環境が上向かず、原資確保に苦戦している状況です。 では、原資がままならない中小企業が賃上げを進め、人材の定着を図るにはどうすればよいのでしょうか。 社会保険労務士法人 加藤マネジメントオフィスの加藤 千博先生に、これらの方策について伺いました。

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賃上げを進める大企業と踏み切れない中小企業
昨年から賃上げを巡る動きが活発化してきています。経団連が5月20日に発表した2024年春季労使交渉の1次集計によれば、大手企業の定期昇給とベースアップ(ベア)を合わせた賃上げ率は5・58%、平均引き上げ額は1万9480円で、この賃上げ率は1991年以来33年ぶりの高水準とのことです。その一方で、厚生労働省が発表した3月の毎月勤労統計調査では、1人当たりの実質賃金が前年同月比2・5%減となり、減少は24カ月連続で過去最長だったといいます。
これは格差が大きく広がっていることを意味します。一部の大手企業では確かに賃上げが進んでいるのですが、中小企業では現状維持で手一杯といったところが多く、正社員などと比べて所得が低い非正規雇用者(パート、アルバイト、派遣社員、嘱託社員など)が増加している(図1)ことも相まって、全体の実質賃金の平均が減少し続けているのです。日本の雇用全体の7割を占める中小企業の従業者の賃上げをいかに進めていくか、これが今、大きな課題です。

苦境の製造業や物流業業務効率化も難しい実情
中小企業が賃上げに踏み切れない最大の理由は、賃上げの原資がそもそも枯渇している点にあります。特に苦境に立たされているのが中小の製造業で、昨今の原材料費や燃料代などの高騰で利益を圧迫している上に、製造コスト上昇分を製品価格に転嫁することが思うようにできていません(図2)。その企業の多くは顧客離れを恐れ、価格転嫁に関する交渉のノウハウを持ち合わせていないなどの事情があり、これらが原資不足に追い打ちをかけているようです。

物流業界では、今年からトラックなどのドライバーに対する時間外労働の上限規制が課されたことで、人材の流出が始まっています。運送業は一般的に運搬した距離や荷物量が売り上げに直結するので、法令を遵守する会社と罰則覚悟でこれまで通りの長距離・長時間運転を従業員に課す会社で足並みがそろわず、一部のドライバーからは「長時間運転をした方が稼げる」という声まで上がっています。法令遵守で人材が流出しては人手不足で売り上げが立たず、賃上げ原資の確保どころではありません。この事例については企業努力だけでは厳しいものがありますので、今後は国による取り締まり強化も求められると思います。
このように業種ごと、企業ごとに事情は大きく異なりますが、それでも人材確保・定着のために賃上げを検討しなければならないのであれば、従来のビジネスのあり方を見直し、業務効率化による生産性向上を図る必要があります。例えば、業務効率化に資するITツールの導入が効果的で、クラウド上で勤怠管理や勤務時間の集計が可能なシステムを導入すれば、従業員はスマホで出退勤の打刻ができ、管理側も勤怠記録を自動で集計し、そのデータを給与計算と紐付けることができます。しかし、多くの中小企業はITツールを使いこなせる人材がいないことが足かせとなり、業務の効率化・自動化を思うように進められていません。
新たな人事評価制度の導入で成果に応じた賃上げを
では、賃上げの原資がなく、業務効率化にも乗り出せない場合はどんな方法があるでしょうか。そうした場合に私も勧めているのが、新しい人事評価制度の導入です。具体的には限られた原資の中で給与の再配分を進めていくというもので、極端に言えば「稼げる人」の給料を引き上げ、「稼げない人」を減額する。つまり、会社として捻出できる人件費の総量を増やせないなら、その範囲内で成果に応じた分配を実践しようというわけです。人事評価制度を導入して業績貢献度や能力の高い従業員の賃上げを進めれば、彼らのモチベーションが向上して生産性が上がり、それが売上増、ひいては全体の賃金の底上げにもつながる可能性があります。
導入する人事評価制度は何より企業の実情に寄り添った仕組みにしなければなりません。そして、評価者(部門の管理職など)が適正な評価を行えるかどうかが問われます。せっかく素晴らしい制度を導入しても、「部下に嫌われたくない」という思いから低評価をつけるのを尻込みしたり、評価者の偏見に任せた人事評価ではうまくいきません。そこで、私は企業から依頼を受けて人事評価制度を導入する際、評価者に対する研修にかなり力を入れています。新たな人事評価制度の意義を従業員の方々に説明し、評価者に対する複数回の研修やシミュレーションを重ねた上で、3年ほど並走しながら制度の本格稼働を目指すようにしています。
賃上げ以外の人材確保・定着策
すぐに人事評価制度などの導入が難しいという企業は、まずは賃上げ以外の新たな人材確保・定着策を検討してみるのも一案です。

福利厚生面でいえば、人間力の向上や語学の習得、資格の取得などを費用面でサポートする制度を導入したり、こうした自己研鑽のための休暇制度を設けたりしてはどうでしょうか。私が企業へのヒアリングを重ねて分かったことですが、近年の若手労働者は所属している企業での成長以上に「自分自身の成長」を重視しています。人材開発支援助成金や働き方改革推進支援助成金など(図3)を活用できるため、導入コストは低く抑えられます。

また、勤務時間を見直してみることも有効です。私が顧問を務めるある歯科クリニックでは、以前まで他の一般的なクリニックと同様、朝9時から19時過ぎまでの勤務時間としていたため、拘束時間が長くなりがちで(昼休憩は1・5時間)、なかなか人材が集まりませんでした。そこで、昼休憩を1時間に短縮し、その分、診療時間を17時までとしたところ、それだけで応募が急激に増え、賃金を上げることなく人材を確保することができました。売り上げの大幅ダウンも覚悟しての窮余の一策でしたが、フタを開けてみると売り上げも特に落ちなかったそうです。世の働き方改革が進みフレキシブル出勤やテレワークなどが広がっているので、患者様が短い診療時間に予定を合わせやすくなっているのも奏功したのかもしれません。従来のやり方にこだわらず、手間やコストもかけずに行った働き方改革の好例だと思います。


経営者の中には「賃上げはおろか、現状の業務を維持するのが精一杯でどこにも変革の余地がなく、その余裕もない」とおっしゃる方もいますが、この例のように何かしら手はあるものです。人手不足が深刻化の一途を辿り、時代の移り変わりで柔軟な働き方が当たり前となりつつある今、あらゆる企業がこれまで同様の賃金、働き方のままでは生き残っていけませんので、ぜひとも変革を模索していただきたいと思います。