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北陸会企画

2021年09月号

重要伝統的建造物群保存地区に選定された「吉久」と平成の大修理が完了した重要伝統的建造物群保存地区「勝興寺」

富山県北西部に位置する高岡市は県庁所在地の富山市に次ぐ県第2の都市です。高岡は、江戸初期に高岡城の城下町として開かれ、武士の町から町人主体の「商工業の町」へと発展を遂げた珍しい歴史を持つ町として、文化庁の日本遺産第1弾に認定されています。さらに昨年、市内の吉久伝統的建造物群保存地区が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。吉久は加賀藩の年貢米を収納した「御蔵」が設置され、米の集散地として栄えたところであり、伝統的な町家が現在まで残ることで知られます。今回は「吉久」の歴史、魅力などを同市既存の重伝建地区「山町筋」「金屋町」と併せて、高岡市教育委員会事務局・文化財保護活用課にご紹介いただくとともに、日本遺産の構成文化財であり、このほど平成の大修理が完了した国指定重要文化財「勝興寺」の歴史・見どころについても公益財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団の高田 克宏専務理事にお話しいただきました。 

年貢米を収納する「御蔵」から発展趣のある歴史的町並みを形成

―高岡市教育委員会事務局・文化財保護活用課

 2020年12月23日に高岡市の吉久伝統的建造物群保存地区が、市内で3カ所目の国の重要伝統的建造物群保存地区(以後、重伝建地区)に選定されました。吉久は高岡市の北東部、小矢部川と庄川に挟まれた河口部に位置し、江戸時代後期から昭和30年までに建てられた切妻造平入の町家などが残り、特有の町並みを形成しています。

 もともと、吉久は農村地帯で、農業や川漁を生活基盤としていましたが、加賀藩の年貢米を収納する御蔵の設置にあたり、放生津往来沿いに近隣の村々から人が集められ吉久新村ができ、元の吉久村とともに発展し、米の集散地として栄え始めたとみられています。江戸時代、高岡の外港は吉久の対岸にある伏木港であり、米や加賀藩の特産物等を北前船で大坂や江戸に運び売却しており、その中でも吉久御蔵は砺波・射水平野で収穫された米の備蓄・流通拠点であり、江戸後期には加賀藩最大の御蔵となりました。

 その後、明治期の地租改正で吉久御蔵は廃止されましたが、米商や蔵仲間と呼ばれた吉久の有力な町民は、米の流通に精通した経験を生かして合同で米穀売買や倉庫業に進出し、成功を収めました。

 吉久の町家にはこうした歴史を反映した独自の特徴があります。京町家のような商家風の表構えでありながら、雪を意識した深い軒があること、内部に一般的な町家にみられる「通り土間」がないこと、建物2階正面部分に「あま」と呼ばれる稲わらや農機具などの物置があることなど、吉久が米商人と農家という二つの性格を兼ね備えていたからこその特徴がみられます。加えて1階には「サマノコ(狭間の格子)」と呼ばれる格子を設けるのが一般的で、これは市内の他の町家にみられる格子に比べて桟が細く、間隔も細かいため、より繊細な印象があります。

 今般の重伝建地区選定にあたっては放生津往来沿いの町並みに江戸後期までに形成された〝地割〟が当時のまま残っている点、吉久特有の切妻造平入の町家が残り、河口部に栄えた町の歴史的風致を今に伝えている点が評価されました。

金屋町にある高岡市鋳物資料館では初期の鋳物製造用具、鋳物製品、古文書などが展示され、400年にわたる高岡鋳物の歴史と伝統を知ることができる

金屋町にある高岡市鋳物資料館では初期の鋳物製造用具、鋳物製品、古文書などが展示され、400年にわたる高岡鋳物の歴史と伝統を知ることができる

石畳の通りに真壁造りの家が軒を連ねる金屋町重伝建地区。銅器製品国内シェア90%以上という高岡の地場産業、高岡鋳物発祥の地

石畳の通りに真壁造りの家が軒を連ねる金屋町重伝建地区。銅器製品国内シェア90%以上という高岡の地場産業、高岡鋳物発祥の地

吉久重伝建地区の放生津往来の町並み

吉久重伝建地区の放生津往来の町並み

城下町から商都にシフト町民文化が花咲いた高岡の町並み

 吉久の町並みに続いて、高岡の成り立ちや他の重伝建地区もご紹介したいと思います。

 高岡の町は約410年前の江戸初期に、加賀前田家2代目当主・前田利長(初代当主利家公の嫡男)によって城下町が開かれたことを起源としています。利長は1605年、3代当主となる利常に家督を譲り、加賀藩主の居城である金沢城から隠居して富山城に移りました。その後、富山城が火災にあったため、1609年、新たに高岡に城を築いて居城としました。利長は高岡入城に際し、北陸道沿いに近隣の城下町から商人を招いて、商人町を町立てしました。1611年には鋳物師を招いて、町人の生活に必要不可欠な道具である鍋・釜・鉄瓶、鋤や鍬等、城下の整備のために必要な城門や橋の鉄製金具等の鋳物造りに専念させました。高岡の発展の土台を造った利長ですが、在城わずか5年で亡くなり、家臣団は金沢に引き揚げたため、家臣を主要な商売相手としていた商人たちは商売が成り立たなくなり、町を出ていくことになりました。

 3代当主の利常は、町人が少なくなった高岡城下の荒廃を憂い、高岡町人の他所転出の禁じ、家臣団の武家屋敷跡には新たな町人の移住をすすめました。加えて当時、越中の特産品であった麻布の集積地とし、魚問屋や塩問屋の創設を認め、家臣の武士がいた城下町から加賀藩の物資が集積する商都へと変容を遂げる転換策を講じました。

勝興寺は日本遺産「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち 高岡―人、技、心―」の構成文化財でもある 富山県高岡市伏木古国府17-1 ■拝観・観光ボランティアガイド利用などの申し込み?0766-44-0037勝興寺

勝興寺は日本遺産「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち 高岡―人、技、心―」の構成文化財でもある 富山県高岡市伏木古国府17-1 ■拝観・観光ボランティアガイド利用などの申し込み?0766-44-0037勝興寺

高岡御車山祭 例年5月1日の高岡関野神社春季例大祭で執り行われる。山町一帯で高岡の金工・漆工などの技術の粋を集めた7基の御車山が、華やかにかつ厳かに奉曳(ぶえい)する

高岡御車山祭 例年5月1日の高岡関野神社春季例大祭で執り行われる。山町一帯で高岡の金工・漆工などの技術の粋を集めた7基の御車山が、華やかにかつ厳かに奉曳(ぶえい)する

明治時代の優れた防火建築が残る山町筋。土蔵造りの旧家42棟が立ち並ぶ

明治時代の優れた防火建築が残る山町筋。土蔵造りの旧家42棟が立ち並ぶ

 利長が町立てした商人町である「山町筋」は、2000年に高岡市最初の重伝建地区として選定されました。商都高岡の中心地であり、菅野家をはじめとする多くの豪商が生まれ、明治時代には米の商会所や多くの金融機関が築かれました。今日にみられる土蔵造りの町家は、1900年の大火後の復興の際、防火構造の建造物とすることが義務付けられたためであり、中には観音開きの土扉や左右に防火壁などを有しているものもあります。

 その後の近代化や富の集積を示す、本格的な洋風建築である赤レンガの銀行も見ることができます。また、高岡御車山を所有・継承していることから、「山町」とも呼ばれています。

 鋳物師を招き集住して形成された「金屋町」は2012年に重伝建地区に選定されています。江戸時代から昭和初期に建てられた真壁造りの町家が立ち並び、時代ごとに特徴的な構造や意匠を見ることができます。

 高岡には趣の異なる町並みが残っていますので、ぜひともお越しいただき散策をお楽しみください。

勝興寺総門と鼓堂。約3万㎡の境内にある最初の門が総門で、鼓堂では江戸時代から戦前まで境内や周辺地域に時間を知らせるために太鼓が打ち鳴らされていたという

勝興寺総門と鼓堂。約3万㎡の境内にある最初の門が総門で、鼓堂では江戸時代から戦前まで境内や周辺地域に時間を知らせるために太鼓が打ち鳴らされていたという

1795年に建立された勝興寺本堂。間口39.4m、奥行37.5mの巨大な木造建築物。長さ最大9mの柱が122本も立っている。平成の大修理では半解体修理が行われた

1795年に建立された勝興寺本堂。間口39.4m、奥行37.5mの巨大な木造建築物。長さ最大9mの柱が122本も立っている。平成の大修理では半解体修理が行われた

勝興寺の唐門(国指定重要文化財)。1769年に京都興正寺で建立され、明治時代に勝興寺に移築されたものだという

勝興寺の唐門(国指定重要文化財)。1769年に京都興正寺で建立され、明治時代に勝興寺に移築されたものだという

奈良時代、越中国府が置かれた伏木に立つ重文「勝興寺」

―高田 克宏氏(公益財団法人 勝興寺文化財保存・活用事業団 専務理事)

 「雲龍山 勝興寺」は浄土真宗本願寺派の寺院です。真宗王国越中における代表的寺院であると同時に本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きをしてきました。まずはその歴史からご紹介したいと思います。

 1584年、現在地に移転した勝興寺は、戦国期には越中における一向一揆の拠点寺として機能してきました。そして、浄土真宗の一大拠点として近世には本願寺や加賀前田家とも関係を強め、藩政期を通して門前地を寺内町として支配下に置いていました。寺内町が舟運業で賑わいを見せる中でも勝興寺はその中核として存在感を示し、現在でも寺内町・港と一体となった風情を残しています。

勝興寺本堂の内陣

勝興寺本堂の内陣

重要伝統的建造物群保存地区

 勝興寺の敷地は約3万㎡にも及び、本堂を含む12棟の江戸時代中期から後期の建造物が国の重要文化財に指定されています。境内は奈良時代の越中国府の所在地であり、国守として万葉歌人の大友家持が5年間赴任したことでも知られ、越中の自然と風土を詠んだ多くの歌が『万葉集』に収載されています。重要文化財に指定された勝興寺の他に類を見ない特徴は寺院景観に表れており、そこには江戸時代中・後期当時の姿が今日まで現存しています。新しく建てられているのは境内のトイレと受付くらいで、他はすべて当時のままです。

 今年4月11日には23年間にわたる保存修理事業「平成の大修理」の竣工式が執り行われました。1998年に本堂の保存修理に着工、昨年には本堂や総門など重要文化財建造物12棟の修復を終え、景観整備や堀の浚渫などを経て今年3月末に完工しました。

 大伽藍など江戸時代後期の状態に戻った勝興寺を訪ねながら、歴史・文化遺産の香り高い伏木地区の町歩き、そして雄大な立山連峰が眼前にひろがる雨晴海岸などを散策されてはいかがでしょう。

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