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ご当地自慢

2018年11月号

太宰府天満宮、太宰府門前町

古くは九州の政治経済・軍事・外交を司る役所が置かれた“遠の朝廷”、菅原道真公の左遷の地、 そして幕末には「維新の策源地」とさまざまな歴史の舞台となった太宰府。 現代では「天神様」の総本社として多くの参拝客を集める太宰府天満宮とその参道をご案内します。

菅原道真公を祀る太宰府天満宮

福岡県中西部の筑紫地域に位置する太宰府天満宮。その参道の起点には西鉄太宰府駅があり、西鉄福岡駅(天神)から西鉄天神大牟田線(特急・急行)と西鉄太宰府線を乗り継げば約20分でアクセスできますが、博多駅や福岡空港からなら直行便の「太宰府ライナーバス旅人」を利用するのが便利です(所要約25~40分)。

駅前広場から真っ直ぐに伸びる参道の両脇にはたくさんの土産物屋や甘味処などが軒を連ね、思わず目移りしてしまいますが(①)、まずは大鳥居をくぐって過去・現在・未来を表すという3本の神橋(②)を渡り、太宰府天満宮の御本殿(③)にお参りしましょう。この太宰府天満宮の御祭神は菅原道真公(④)。平安時代中期を生きた才人で、現在では〝学問の神様〟として有名です。宇多天皇に重用されて要職を歴任し、897年、宇多天皇がまだ13歳の皇太子に天皇の位を譲ると、右大臣として幼い醍醐天皇に代わって左大臣の藤原時平とともに政治を行うことになりましたが、時平や他の貴族からその才能を妬まれ、901年、天皇への謀反を企てたという無実の罪で大宰府に左遷されてしまいました。本殿向かってすぐ右手に佇む梅の木は、そんな道真公を慕って一夜にして京都から飛んできたと伝えられる古木で「飛梅」と呼ばれています(⑤)。

この大宰府の南館で衣食もままならない貧しい暮らしを送った道真公は、失意の中、903年2月25日、59歳で亡くなりました。その亡骸は、京から従って来ていた門弟の味酒安行によって牛車に乗せて運ばれましたが、大宰府東北の地で牛が座り込んで動かなくなってしまいました。これが丑年生まれの道真公の御心と解され、道真公はその場所に埋葬されることに(⑥)。その後、御墓所の上に祀廟が建てられ、919年には勅命によって立派な社殿が建立。これが現在の太宰府天満宮本殿の原形となったのです。道真公亡き後、京の都では藤原時平をはじめ、道真公の追放に関わった人たちが次々と変死を遂げ、醍醐天皇の住む清涼殿にも死者が出るほどの落雷が。京では、醍醐天皇がこれにショックを受けて亡くなると、人々は「祟りだ」と恐れ、道真公を雷や天候をつかさどる荒ぶる怨霊神として祀るようになりました。これが天神信仰の始まりと言われています。

古来より時代とともに形を変えた天神信仰

現代では〝学問の神様〟として祀られている「天神様」が、もとは怨霊神だったとは、意外に思われる方も多いと思います。というわけで、お参りの後で社務所に立ち寄り、太宰府天満宮の禰宜である味酒安則さん(⑦)にお話を伺ってみました。曰く、当初、天神様を怨霊神として恐れ敬ったのは主に京都とその近郊のみで、他の地域では雨を呼ぶありがたい農耕神として祀っていたそうです。その後、鎌倉時代には〝正直の神様〟として祀られていた時期も。「これは当時、源頼朝に倒された貴族の生き残りと武家政権が二重に存在し、その両方が民の生活を圧迫したために、己の誠を貫いた道真公が崇められたからかもしれません」と味酒さん。そしてさらに時代が下って江戸時代初め頃になってようやく、太平の世ゆえの教育ブームを背景に〝手習いの神様〟、学者本来の姿が広がって〝学問の神様〟に。全国各地数万カ所に寺子屋ができていく勢いに乗って、現在のような天神信仰がこの頃急速に全国に広まったといいます。「このように、道真公の死後約1100年、天神信仰はとても長い歴史を持っていますが、実は各時代ごとの人々の願いや思いに応答するかのごとく、その信仰のあり方をさまざまに変えてきました。それが天神信仰の特色なのです」と味酒さんは教えてくれました。

幕末史の重要な舞台となった太宰府

味酒さんによれば「この太宰府は、幕末史を語る上でも欠かせない場所です」とのこと。ちょうど今年は明治維新百五十年、太宰府天満宮境内の宝物殿(⑧)で11月25日(日)までの期間、「太宰府 幕末展」を開催しているので、幕末の太宰府のエピソードも味酒さんに伺ってみました。

激動の幕末期、政変によって京都から下った尊王攘夷派の公家、三条実美ら五卿が約3年間滞留したことから、太宰府には坂本龍馬や中岡慎太郎ら志士たちが来訪し、新時代到来に向けて談義を重ねたそうです(⑩)。例えば、1865年(慶応元年)5月25日、坂本龍馬がこの地を訪れ、五卿に拝謁しています。味酒さんによれば、その目的は対立する薩摩と長州の同盟を成立させるための布石を打つことだったといいます。「当時、三条実美ら五卿といえば長州藩士たちにとって『五卿様』と敬われる維新のシンボル。その彼らから薩長同盟の許しを得ることで、長州方の薩摩方への態度が軟化するはず、と踏んだわけです」。

土産物屋や甘味処が軒を連ね、大勢の参拝客でにぎわう参道

土産物屋や甘味処が軒を連ね、大勢の参拝客でにぎわう参道

心字池には太鼓橋・平橋・太鼓橋の順に3つの橋が一列にかかっている。写真はひとつ目の太鼓橋

心字池には太鼓橋・平橋・太鼓橋の順に3つの橋が一列にかかっている。写真はひとつ目の太鼓橋

太宰府天満宮本殿

太宰府天満宮本殿

菅原道真公の肖像

菅原道真公の肖像

飛梅。京都から道真公を慕って飛んできたと言われており、境内の約6000本の梅の中でもっとも早く花を咲かせるという

飛梅。京都から道真公を慕って飛んできたと言われており、境内の約6000本の梅の中でもっとも早く花を咲かせるという

牛は神使として神聖視され、現在も境内の計10カ所に牛の像が置かれている

牛は神使として神聖視され、現在も境内の計10カ所に牛の像が置かれている

味酒さん。道真公の門弟、味酒安行の42代目の子孫で、太宰府天満宮禰宜・学芸員を務める傍ら、福岡女子短大教授として教鞭をとり、講演・出版活動も行っている

味酒さん。道真公の門弟、味酒安行の42代目の子孫で、太宰府天満宮禰宜・学芸員を務める傍ら、福岡女子短大教授として教鞭をとり、講演・出版活動も行っている

味酒さん。道真公の門弟、味酒安行の42代目の子孫で、太宰府天満宮禰宜・学芸員を務める傍ら、福岡女子短大教授として教鞭をとり、講演・出版活動も行っている

味酒さん。道真公の門弟、味酒安行の42代目の子孫で、太宰府天満宮禰宜・学芸員を務める傍ら、福岡女子短大教授として教鞭をとり、講演・出版活動も行っている

手水舎のそばにある麒麟像は、幕末に博多の商人たちが寄付したもの

手水舎のそばにある麒麟像は、幕末に博多の商人たちが寄付したもの

宝物殿では五卿が詳しく紹介されている

宝物殿では五卿が詳しく紹介されている

薩摩藩の定宿である「松屋」でひと休み

幕末史の重要舞台としての太宰府にもっと触れたいという向きは、お参りの帰り道、参道沿いの「松屋」に立ち寄ってみましょう(⑪)。ここは現在では土産物屋兼喫茶店ですが、かつては薩摩藩の定宿だったのです。例えば今、NHKの大河ドラマ『西郷どん』で人気の西郷隆盛が慶応元年2月23日から25日までの3日間、ここに泊まった際の「西郷の手行灯」という逸話が今に伝わっています。なんでも、松屋の当時の仲居の上田シゲが朝、西郷さんの部屋へ行ってみると、その手の甲が真っ黒になっていたのだとか。その理由を聞いてみると、「昨日は天神様の命日だったから、手に菜種油をすくい、そこに軸心を垂らして明治維新が成就するようお灯明をあげていた。その煤で黒くなったのだ」と。

第6代 松屋当主の栗原 雅子さんによれば、この松屋にはこうしたエピソードだけでなく、かつて滞在した薩摩藩士たちが残した書も残っているとのこと(⑫)。この日は栗原さんのご厚意で、建物の2階を見せてもらうことに(⑬)。現在では栗原さんたちの住居や客間として使われている2階には広々とした和室がいくつもあり、このいずれかにかつて西郷隆盛や大久保利通が滞在し、日本の行く末に思いを馳せたのだと想像すると、歴史好きにはたまらないものがあります。

さて、この2階は普段は公開していませんが、一階の喫茶店「維新の庵」(⑭)にも月照など幕末に松屋に滞在した人々の書の写真が飾られており、それらを眺めながら休憩することができます。そして、太宰府に来たからには忘れずに食べておきたいのが名物の「梅ヶ枝餅」(⑮)。小豆餡を餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼いたお菓子で、道真公の貧しい暮らしぶりを見かねた老婆(浄明尼)が、梅の枝に粟餅を巻きつけてこっそり差し入れた、という由来があるそうです。「維新の庵」では抹茶やコーヒーと梅ヶ枝餅をセットで頼めるので、散策に疲れた足を休めて小腹を満たすのにピッタリ。帰り際にぜひ立ち寄ってみてください。

薩摩藩の定宿だった「松屋」

薩摩藩の定宿だった「松屋」

西郷隆盛がしたためた書

西郷隆盛がしたためた書

「松屋」2階の様子

「松屋」2階の様子

喫茶店から出られる庭。松屋の趣ある姿を裏から見られる

喫茶店から出られる庭。松屋の趣ある姿を裏から見られる

梅ヶ枝餅と抹茶セット

梅ヶ枝餅と抹茶セット

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