2021年05月号
父へ 今想うこと

昭和45年1月、九州(大分)に帰った際の一枚。珍しい
笑顔の父と私です
父は、昭和8年に「福岡県嘉穂郡稲築村大字漆生三井山野鉱業所第壱杭」で生まれました。名前の通りの炭鉱町です。6歳の時に父親を亡くし、母親と8人の兄弟姉妹の暮らしの中、炭鉱で働いていました。その炭鉱は閉鎖され、大分出身の私の母と結婚後は岐阜へ移住、私は岐阜市で生まれ育ち、現在も夫と岐阜市で暮らしております。
父のルーツである福岡を辿ってみたいと思いながらも、ゆっくり話も聞けず、平成最後の年に旅立ちました。いつか、父の戸籍と断片的に残っている父との会話を頼りに、炭鉱跡地、楽しみに通っていたという演芸場や映画館の跡地を旅してみたいと思っています。
とても厳しかった父(全て九州弁)です。少食の私に対し「朝ごはん食わんなら学校行かんでいい」と茶碗を庭に投げ捨てる父。自慢して見せた80点のテスト用紙を「学校で真剣に勉強すれば100点取れるど。塾にも私立にも行かせられんぞ」と破り捨てる父。
いつも怒られてばかりの中で、鮮明に残っていることがあります。
「お前は背も鼻も低いかしれんが、根性は誰にも負けるな。山椒は小粒でもピリリと辛いんじゃ」
なんだか奇妙な言葉でしたが、とても嬉しく感じました。今でも「山椒はピリリなんじゃ」と自分に言い聞かせています。深い意味があるやらなんやら分かりませんが、不思議と力が湧いてきます。
今想うと、父の言動は、「自分自身に言い聞かせて歩んできた心持ち」であり、そして「男女の区別も見た目にも拘らず、自分自身で生きる力を付けること」を厳しいながらも教えてくれていたと解釈しています。
長引くコロナ禍、家庭内でのストレスが溜まっていると思います。このような時だからこそ、お互いに優しい思いやりが必要だと感じます。
一方で、私は、人生の中で培ってきた厳しく力強い言葉をもっと聞きたいと思い、頑固者で厳しかった父を今になって頼もしく懐かしく想うのです。もし今生きていたら、何を言うのでしょうか。想像するだけで楽しくなります。
1日も早い終息を願いつつ...