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東北会企画②

2019年05月号

世界遺産登録を目指す
「北海道・北東北の縄文遺跡群」の
価値

 約1万5000年前から1万年以上にわたって続いた縄文時代。その文化を色濃く残し、北海道、青森県、岩手県、秋田県に点在する17遺跡から成る「北海道・北東北の縄文遺跡群」が、世界文化遺産への登録を目指しています。そこで、4道県で構成されている「縄文遺跡群世界遺産登録推進会議」の岡田 康博座長に、世界遺産登録申請の経緯と進捗状況、そして三内丸山遺跡をはじめとする縄文遺跡群の価値についてお話しいただきました。

人々が助け合いながら自然と共生していた縄文時代

 昨年7月から東京国立博物館で開催された「縄文―1万年の美の鼓動」展の来場者数が9月までの2カ月間で35万人以上となりました。まさに縄文文化に対する注目度の高さがうかがえる数字です。また、縄文をテーマにした映画『縄文にハマる人々』が公開されたり、日本各地の縄文遺跡でさまざまなイベントが開かれるなど、2018年は縄文文化を巡る動きが活発な年でした。これは「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を目指す私たち北海道・青森県・岩手県・秋田県および関係自治体にとって追い風になっています。

 そもそも、縄文時代とは旧石器時代が終わったおよそ1万5000年前から約1万年間続いた時代のことであり、その名称は当時、縄目の文様を持つ土器が使われていたことに由来します。氷河期が終わりを迎え、日本列島には温暖で湿潤な気候のもと、山、川、森、海などが形成され、人々が狩猟・漁労・採集による定住生活を営んでいた時代です。

 そういった先史文化の物証として顕著な普遍的価値を持つ可能性が高いと評価され、09年1月にユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載され、日本の正式な世界遺産の候補になったのが、北海道・青森県・岩手県・秋田県の17遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」(以下、「縄文遺跡群」という)です。

 その後、縄文遺跡群は18年7月に文化審議会世界文化遺産部会において18年度の国内推薦候補に選定されたのですが、文化遺産・自然遺産で2本立てとされていた国内推薦が、20年登録分から文化・自然遺産合わせて1件の推薦に限定されることになり、自然遺産候補の「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」に先を譲ることに。そして今年1月に19年度国内推薦有力との内定をいただきました。

 今後のスケジュールとしては、19年度推薦候補決定に次いで20年2月までに国からユネスコへ推薦書が提出(1国1件)され、20年9月頃に実施されるユネスコ諮問機関(イコモス)の現地調査を経て、21年夏頃、世界遺産委員会で登録の可否が決定することになります。それまでは4道県で一致団結して、縄文文化や縄文遺跡の価値を伝えるフォーラムの開催や情報発信などを行っていきます。

世界遺産登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」。4道県に17の構成資産がある

世界遺産登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」。4道県に17の構成資産がある

三内丸山遺跡全景 (青森県教育庁文化財保護課提供)

三内丸山遺跡全景 (青森県教育庁文化財保護課提供)

三内丸山遺跡では「掘立柱建物」(高床倉庫)3棟が復元された。ちなみに、この倉庫はネズミなどから食料を守るために高床式にされたと考えられている

三内丸山遺跡では「掘立柱建物」(高床倉庫)3棟が復元された。ちなみに、この倉庫はネズミなどから食料を守るために高床式にされたと考えられている

範囲の広さと継続期間の長さが高く評価された17遺跡群

 「全国には他にも縄文遺跡があるが、どうして北海道と北東北の遺跡群が世界遺産候補なのか」とよく聞かれます。その理由はシンプルで、1万年以上続いた縄文時代の変遷を説明できるのがこの縄文遺跡群だからです。自然環境に適応しながら定住を開始・発展させた過程が見事に示されており、実際、土器を使い始めて定住し、次第に大型の拠点集落や共同墓地ができていった過程とその生活の実態を示している上に、それらが良好な保存状態で残されています。また、津軽海峡を挟んで同じ形の土器や家があることなど共通の文化圏があり、交流があったことも分かっています。まさにこの縄文遺跡群は「人類共通の宝」として未来に伝えていくべき貴重な文化遺産なのです。

 特に代表的な遺跡として知られる三内丸山遺跡では、1992年に大規模な発掘調査を開始して以降、さまざまな発見がありました。計画的な集落作りやその規模の大きさ、自然資源の利用など、調査から縄文人の暮らしぶりが明らかになり、それまでの縄文文化のイメージを大きく変える大発見とまで言われました。三内丸山遺跡には5500年前から4000年前までの間、世代を重ねながら同じ場所で定住してきた形跡があります。その間、戦争らしきものがなかったのではないかとも考えられています。発掘された人骨に戦いによる傷跡が少なく、武器も発見されていないからです。

 一つの文化が1万年以上も続いたというのは世界的にも稀ですが、その上、縄文時代の人々はお互いに協調し合い、平和を享受しながら暮らしていました。現代のさまざまな知恵・技術の原点とも言えるでしょう。縄文遺跡群に足を運び、ぜひともその素晴らしさをご自身の目で見て感じてください。現代に生きる私たちもそこから多くのことを学べるはずです。

縄文時代晩期の集落遺跡亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)から出土した「遮光器土偶」。およそ3000年前のものと推定されている (東京国立博物館所蔵)

縄文時代晩期の集落遺跡亀ヶ岡石器時代遺跡(つがる市)から出土した「遮光器土偶」。およそ3000年前のものと推定されている (東京国立博物館所蔵)

「縄文ポシェットとくるみ」 三内丸山遺跡から出土した「縄文ポシェット」と呼ばれる高さ16㎝ほどの小さな袋。樹皮を網代編みにしたもので、大きさや形が分かるものとしては全国唯一だという (青森県教育庁文化財保護課所蔵)

「縄文ポシェットとくるみ」 三内丸山遺跡から出土した「縄文ポシェット」と呼ばれる高さ16㎝ほどの小さな袋。樹皮を網代編みにしたもので、大きさや形が分かるものとしては全国唯一だという (青森県教育庁文化財保護課所蔵)

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