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事務所 訪問

2020年05月号

真野税理士事務所 写真

手厚い経営支援で地場企業を支え続け
事業拡大や新たな業界の開拓にも注力

戸内海で最大の面積を誇り、約13万人が暮らす淡路島。その中心の兵庫県洲本市で半世紀にわたって 地場企業を下支えしてきた真野税理士事務所。親子で事務所経営に取り組む 所長の真野 耕治先生とご子息の陽一先生に、これまでの歩みと展望などを伺いました。

経営コンサルタントとして顧問先と向き合う

真野 耕治先生は50年前、淡路島で最も早く税理士登録をされたそうですね。まずは事務所開業の経緯をお聞かせください。

真野 耕治所長(以下、耕治先生) 真野家は税務一家で、私の父の勝一は長年、税務署に勤務して熊本国税局長を、兄の新(あらた)は国税局調査部次長を最後に退官(親・子とも姫路税務署長も歴任)。各々退官後、大手企業の監査役になったのですが、同時にふるさとの洲本市に事務所を立ち上げました。そして、1972年頃から私がその事務所の実務を手掛けることになったのです。

60年代当時、淡路島では税理士はどのくらいいたのでしょうか。

耕治先生 40数人ほどでした。現在も同じくらい税理士登録数はありますが、約半数は自宅開業者です。

どのような事務所を目指して開業し、経営を続けてきましたか。

耕治先生 開業当初から、一貫して「単に記帳を行うのではなく、顧問先の経営コンサルタントでいこう」というコンセプトを掲げました。現在、一部記帳業務を行っていますが、その割合はコンサルティング業務と比べるとかなり低いものです。

60年代、税理士が経営コンサルタントを標榜する例は珍しかったと思うのですが、そのあたりについてはいかがですか。

耕治先生 「中小企業経営においては、経営者が会社の経理をしっかり把握していることが肝要」という先輩からの助言がきっかけでした。この言葉を常に意識するよう心掛け、徹底して顧問先の自計化を推進、その他さまざまな経営支援を行ってきました。特に80年代以降は、コンピューター技術の発達とともに進歩したMJSの各種ソフトを大いに活用させてもらいました。日頃から自社で経営数字を見える化すれば、確実に自立した経営と成長につながると思います。

顧問先はどのように増やしていったのでしょうか。

耕治先生 地方ならではの人情やつながりを大事にしました。さまざまな方面で顔がきき、世話好きで親分肌の経営者などを通じて、私どもの経営支援にかける思いを聞いていただき、徐々に顧問先が増えていったのです。現在、顧問先は主に島内ですが、島外の顧問先もあります。

その後、ご子息の陽一先生が事務所に加わったのですね。

真野 陽一先生(以下、陽一先生) 私はまさに父の背中を見て育ってきました。当事務所に入る前に異業種の仕事も経験したのですが、顧問先の経営をサポートするこの仕事に当初から大きなやりがいを感じました。自分の努力がそのまま顧問先の成長と発展につながり、感謝してもらえることは実に素晴らしいと思います。近年では事業承継や相続関係の相談が多く、中には複雑な案件もありますが、これからも父の言う「経営コンサルティング」の目線で丁寧に対応しております。

淡路島の歴史や文化現在の産業構造

事務所がある淡路島について、あらためて特徴や魅力を教えていただけますか。

洲本商工会議所の4階に入るオフィスの窓からは洲本城を望むことができます

洲本商工会議所の4階に入るオフィスの窓からは洲本城を望むことができます

耕治先生 瀬戸内海最大の島として知られていますが、橋で本土とつながっていて神戸や大阪といった都市圏とのアクセスも良いので、現に通勤・通学者が多いです。税務署職員も通勤されております。正直、日々の生活で「ここは島だ」と実感することは少ないです。島内に高等学校も6校あります。特徴としては、何といっても歴史的に重要なスポットであるということが挙げられます。『古事記』や『日本書紀』の国生み神話によると、高天原の神々からの命を受けたイザナキとイザナミが天の浮橋から青海原に天の沼矛を入れてかき混ぜ、引き上げると、剣の先から1滴ポチャンと落ち、それが島になったとのこと。そして、一説によると淡路島北端に浮かぶ絵島が、この時にできた日本で最初の「おのころ島」だと言われています。古くから景勝地として知られ、多くの和歌に詠まれてきました。

 また、古代から平安時代には朝廷に山海の幸を献上する「御食つ国」の一つだったため、現在も春夏秋冬おいしい特産物がたくさん得られることで有名です。

産業面ではいかがですか。

耕治先生 70年代にできた大手電機メーカーの工場で1500人以上の地元住民が働き、その子会社や孫会社が次々と生まれ、成長していった90年代半ば頃まではモノづくり産業に活気がありました。バブル崩壊後のリストラや廃業で勢いを失ってしまいましたが、現在も当時培った技術を武器とするモノづくり企業が頑張っています。中には1000人規模の従業員を擁し、地域経済を支え続けている企業もあります。

陽一先生 ただ、昨今では人口減が深刻化しているのに加えて、四国と関西の両方と橋でつながっていて気軽に島外に買い物ができることもあって、販売業が非常に厳しい状況を強いられています。起業意識が高い若者がいても島では稼げないため、「商売するなら神戸や大阪に出よう」という発想になってしまうのです。

 一方で活気づいているのが農業や水産業などの第一次産業です。15~16年前からブランド化・高付加価値化を図り、いまや全国区の知名度を誇るようになったタマネギ、春秋のサワラや冬のフグ、ノリ養殖業などの水産関係の他、最近では淡路牛が高評価を受けており、牛の販売単価も上がっているので畜産業が好調です。実際、顧問先にも第一次産業従事者が多数います。

業務拡大や新たな顧客開拓で収益の軸を増やす

右/半世紀以上にわたり地場企業を支えてきた真野 耕治先生 左/事務所として提供できる業務の幅を広げることに注力する真野 陽一先生

右/半世紀以上にわたり地場企業を支えてきた真野 耕治先生
左/事務所として提供できる業務の幅を広げることに注力
する真野 陽一先生

時代の流れとともに島の産業構造が大きく変わってきたわけですが、その中で今後どのような展望を描いていますか。

耕治先生 これまで通りの丁寧な経営支援をコツコツと実践していくことが第一だと考えています。と同時に、これからますます人口減が深刻化していくことは明らかですから、業務の幅を広げて収益の軸を増やしていくことが大事になってきます。この点に関しては、息子が新たな業種・業界にアプローチするなど奮闘してくれています。

陽一先生 税務を中心とした経営コンサルティングで顧問先をしっかりと支えることを大前提として、洲本市の監査役を務めたり、各種催し物に精力的に出席し、基礎づくりに取り組んでいます。

 また、新たな顧客開拓でいえば、ここ最近特に注力しているのが畜産業界へのアプローチです。先ほども触れた通り活況を呈しているだけでなく、牛たちを遠隔監視したり、自動で乳しぼりをしたりといったICT技術もどんどん発展しています。ただその一方で、畜産業界には昔ながらのキツイ・汚い職場というイメージで若い人材が集まりにくい面もあります。そこで、経営環境を整えるのはもちろんのこと、こうした技術や機器への投資でシステマティックな運営体制を確立することが求められています。法人化や設備投資に関する各種補助金申請などのサポートの他、新たなシステムを導入した後の運用や経営支援まで、私たち税理士にできることは多々あるので、積極的にお手伝いしていきたいと思います。

本日はありがとうございました。ますますのご発展をお祈りいたします。

税理士までのあゆみ

真野 耕治先生

父の勝一氏は熊本国税局長、兄の新氏は姫路税務署長を務めるなど各地で活躍されましたが、耕治先生は地元を基盤とし、地場産業をしっかりと支えていく道を選ばれました。税務署OBではなく、一般組で大阪にある会計事務所などで修業した後、1970年に資格を取得。そして地元に戻って真野税理士事務所の所長になりました。

真野 陽一先生

小さい頃より父の背中を見て育ち、早い段階で税理士の仕事を意識していたという陽一先生。島の高校を卒業した後は神戸市の大学に進学し、異業種での仕事を経験し、1990年代後半にUターンして事務所に加わり、2007年に資格を取得しました。

真野税理士事務所

所在地
兵庫県洲本市本町4丁目5番3号 洲本商工会議所4階
TEL
0799-22-1683
設立
1970年
職員数
6名

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