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シリーズ企画

2021年07月号

日本のマンガ文化をつくった手塚治虫とトキワ荘

2020年はマンガとアニメの双方で『鬼滅の刃』が話題になりました。かねてより日本のアニメは世界的に高く評価されており、近年ではサブスクリプションサービス(定額制の利用料方式)を通してさまざまなヒット作が生まれています。そこで、日本のマンガとアニメの礎を築いた手塚 治虫をはじめとする多くのマンガ家たちが暮らしたトキワ荘に注目。2020年にオープンした豊島区立トキワ荘マンガミュージアムを取材し、手塚 治虫とトキワ荘が残した功績と今の日本のマンガやアニメに与えた影響について捉え直したいと思います。

西牟田 道子 氏

豊島区立トキワ荘
マンガミュージアム
学芸員

西牟田 道子 氏

2009年経済産業省入省。貿易経済協力局資金協力課(現・通商金融課)課長補佐、通商政策局中東アフリカ課課長補佐などを経て現職。

戦後日本マンガ文化を育んだトキワ荘

 かつて豊島区椎名町(現・南長崎)にあったトキワ荘は、1952年12月に棟上げされたごく普通の2階建てアパートでしたが、雑誌『漫画少年』を発行していた学童社の紹介で手塚 治虫や寺田 ヒロオが入居し、彼らを慕って若いマンガ家たちが次々と集まってからは、後に「マンガの聖地」「マンガ家の梁山泊」と呼ばれる特別な場所になります。老朽化のため1982年12月に解体されましたが、再現を望む多くの声に応えて2020年7月、新たに「トキワ荘マンガミュージアム」として生まれ変わりました。 なぜトキワ荘がこうして現代にかつての姿をよみがえらせたのか、どんな魅力や役割を持つ施設なのか。そのあたりをお話しする前に、まずはトキワ荘で若手マンガ家たちが青春の日々を過ごしていた50年代当時の状況について説明したいと思います。

 戦後、出版の自由が保障されたことで雑誌や新聞の創刊が相次ぐ中、少年誌も多数生まれ、学童社の『漫画少年』もそのひとつとして全国の子どもたちを夢中にさせました。その人気はもちろん、数々の有名作家たちの魅力的な作品に支えられていたのですが、読者からのマンガ投稿コーナーを設けて入選作品を掲載していたことも人気の理由の一つでした。講談社で数々のマンガ誌の編集に携わった丸山 昭氏は『トキワ荘実録』の中で「1950年前後にまんが家を志したものはすべて、この雑誌の投稿者だったといえる」と振り返っています。そして、そんな『漫画少年』の投稿コーナーの選評を担当していたのが〝マンガの神様〟手塚 治虫でした。各誌で大作を手がけつつ、投稿してくるマンガ家の卵たちを応援し、新たな才能の発掘を積極的に行っていたのです。その中でも、投稿少年だった石ノ森 章太郎(84年までは石森 章太郎)を原稿の手伝いのために宮城県から東京に呼び寄せたのは有名な話です。

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 手塚 治虫を慕って、トキワ荘にはたくさんの新人マンガ家たちが訪れました。彼がトキワ荘を去ってからも、同じく『漫画少年』の投稿コーナーの選評を担当していた寺田 ヒロオがリーダー格となって「新漫画党」を結成、石ノ森 章太郎の他、藤子 不二雄?や藤子・F・不二雄、赤塚 不二夫ら後の有名作家たちがここで互いに切磋琢磨し合いながら作品制作に励みました。

細部に至るまでありし日のトキワ荘の姿を再現

 豊島区立トキワ荘マンガミュージアムは、そんなトキワ荘のありし日の姿と日本のマンガ文化の歩みを今に伝えるための施設です。80年代にトキワ荘が解体されて以降、地域住民などを中心にその再現を望む声は上がっていたのですが、それが実現するまでには長い時間がかかりました。2000年代に入って豊島区がマンガ文化発信のための拠点施設「トキワ荘通りお休み処」をつくったり、各所にマンガ家たちのモニュメントをつくったりと、マンガ文化によるまちおこしに取り組む中、徐々にトキワ荘の再現とミュージアム化に向けた機運が高まり、16年に正式にトキワ荘マンガミュージアム運営検討会議(座長:日本漫画家協会理事長 里中 満智子氏)が立ち上げられたのです。この検討会議には各種地域団体やマンガ・アニメ関係団体はもちろん、かつてトキワ荘に入居していた水野 英子氏や鈴木 伸一氏、山内 ジョージ氏といったマンガ家たちも加わってくださいました。何しろトキワ荘はごく普通のアパートでしたので、詳細な図面などは当然残っていません。写真資料も少ない中ではありましたが、それでも当時の新聞記事や数々のエピソード、地域住民や入居していた先生方の話などを参考に、外観から内部構造、壁や床などの風合い、部屋の様子、タンスや机、その他の小物に至るまで徹底的にこだわって「ありし日のトキワ荘の姿を可能な限り忠実に再現する」ことを目指しました。

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1950~60年代当時、トキワ荘に入居していたマンガ家たちの部屋の様子を再現 (19号室、水野 英子氏の部屋)

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1950~60年代当時、トキワ荘に入居していたマンガ家たちの部屋の様子を再現 (18号室、山内 ジョージ氏の部屋)

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2020年7月、豊島区南長崎にオープンしたトキワ荘マンガミュージアム (c)豊島区

 トキワ荘マンガミュージアムの見どころは、何と言ってもこうした地道な努力で再現された細部にあります。例えば扉や壁、床、天井を特殊なエイジング技術で加工したことで、建物内にはマンガ家たちが暮らした1960年代当時の風合いが表現されており、まるでタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるほどです。また一つひとつの小物にもこだわりがあり、共同炊事場の調理台に置いてあるラーメンどんぶりは、トキワ荘の住人たちが通った中華料理店「松葉」の名前入り。実際にトキワ荘があった時代に店で使われていたものを譲り受けて設置した本物です。マンガ家たちが暮らした部屋も徹底した聞き取りのもと、当時彼らが影響を受けた本や雑誌、好きだった映画のパンフレットなどを古本屋で買い集めて配置するなど、とにかく細部にこだわって再現しています。当時のマンガをよく知る方が見れば、先生方の作品世界と部屋の様子などがリンクしていることを感じ取れるでしょう。実際、当館を訪れてくれたトキワ荘を知るマンガ家は「まさにこんな雰囲気の部屋だった」と太鼓判を押してくださいました。当館にお越しになった際は、ぜひこうした細部にも注目してほしいと思います。

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1960年代のマンガ制作道具なども展示されている

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共同便所と廊下。当時の雰囲気や風合いが再現されており、まるでタイムスリップしたような錯覚に陥る

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数々の小物にもこだわりが感じられる共同炊事場 (c)トキワ荘マンガミュージアム

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トキワ荘ゆかりのマンガや書籍の展示

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お土産に人気の記念メダル

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ミュージアムショップなどもあるマンガラウンジ

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ラウンジに展示されているトキワ荘の模型

戦後の日本マンガ文化の歩みを伝える

島区立トキワ荘マンガミュージアム特別企画展

 当館のもう一つの見どころは、企画展です。開館からこれまでの間に「漫画少年とトキワ荘~トキワ荘すべてはここから始まった~」と「トキワ荘のアニキ 寺田ヒロオ展」、「トキワ荘と手塚治虫 ―ジャングル大帝の頃―」(8月9日(月祝)まで開催中)といった企画展を開催してきました。今後も引き続きトキワ荘にゆかりの深いマンガ家たちにスポットを当てた展示を企画していきますが、いずれは現代のマンガやアニメ作品なども併せて取り上げたいと考えています。トキワ荘を「マンガの聖地」とした立役者である手塚治虫は、〝マンガの神様〟であると同時に日本のアニメ文化の生みの親ともいえる存在でした。彼が立ち上げた虫プロダクションが制作し、1963年に放映開始されたテレビアニメ『鉄腕アトム』は大ヒット、毎週制作・放送されるテレビアニメ番組の形をつくって第一次アニメブームを牽引しました。今日のマンガ・アニメ文化の発展は、こうした作家たちのさまざまな挑戦なくしてはあり得ないものだったのです。その意味で、当時の作品と現代の作品を比較するような展示を企画してみるのも面白いかもしれません。

1981年、立て壊し前に撮影されたトキワ荘の様子 写真1
1981年、立て壊し前に撮影されたトキワ荘の様子 写真2
1981年、立て壊し前に撮影されたトキワ荘の様子 写真3

1981年、立て壊し前に撮影されたトキワ荘の様子
(撮影:向 さすけ)

1981年、立て壊し前に撮影されたトキワ荘の様子 写真4
1967年から73年まで虫プロ商事から発刊されたマンガ雑誌『COM』(71年12月号)と、手塚 治虫のライフワークともいえる『火の鳥』の黎明編(COM名作コミックス版)

1967年から73年まで虫プロ商事から発刊されたマ
ンガ雑誌『COM』(71年12月号)と、手塚 治虫の
ライフワークともいえる『火の鳥』の黎明編
(COM名作コミックス版)。「COMはまさに手塚
先生のマンガへの想いが詰まった雑誌で、新しい
才能の発掘を目指してユニークで実験的な作品が
多数掲載された。いずれCOMにスポットを当てた
展示も企画してみたい」と西牟田氏


 また、戦後日本のマンガ文化の発展の歩みを伝える中で、当時のマンガ家たちにとってトキワ荘がいかに重要な存在だったかということは、引き続き伝えていきたいと思っています。当時の日本は少年マンガ誌が次々と創刊され、支持される一方、マンガは子どもたちに良くない影響を及ぼす「悪書」とされ、激烈な批判が寄せられてもいました。特にその急先鋒としてやり玉にあげられたのが手塚治虫でした。今では信じられませんが、マンガ家になりたいと言っただけで周囲から変人扱いされるような状況だったそうです。そんな時代にあって、全国各地からマンガ家を夢みる青年たちがバラバラに東京に出てきて出会い、交流し、互いに刺激し合いながら成長していくことができたのは、『漫画少年』という発表の場と、トキワ荘という切磋琢磨の場があったからこそ。まさに、トキワ荘は戦後日本のマンガ文化の原点であり、その発展に欠かせない存在だったと言えるでしょう。

QRコード

 今や日本のマンガ・アニメは世界に誇る一大コンテンツとなっており、その受容のあり方も多様化、世界中どこにいても電子書籍やスマホアプリ、YouTube、動画配信サービスなどで気軽に数多くの作品に触れることが可能です。また、SNSなどを通じて話題になったのを機に作品が爆発的にヒットする例も増えました。こうしたことが当たり前となっている現代の子どもたちにとって、トキワ荘のマンガ家たちがスマホもSNSもない状況で新しい文化の潮流を巻き起こし、発展させていったのは驚くべき事実です。今こそ、多くの人たちにそのことをあらためて知ってほしいと思います。

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